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「埋もれた夢」「漂流記」

1 :名無し娘。:2000/10/28(土) 01:31
 

2 : 埋もれた夢:2000/10/28(土) 01:37
モーニング娘。が解散して数年後、


「なっちの家の地下室に下りただべか」
「ああ」と、刑事。「降りたよ」
「なっちは石灰を使ってたべ」と、安倍は言った。「あることのために」
「なんのことに使っていたんだ?」と、刑事が訊いた。
「下水の湿気がひどかったし、……
それから……あんたたちがそこで見つけたもののためだべ」
その時撮られた上半身写真には、
茫然自失といった顔つきの女が写っている。
安倍のぶくぶくした顔の整った目鼻立ちはたるみきっており、
皮膚の下には骨がないような印象をあたえていた。
じっとカメラをのぞきこんでいるのだが、
その目はどんよりと曇って、うつろだった。
精神異常の人間、あるいはドラッグをやった人間そっくりだ。



3 : 埋もれた夢:2000/10/28(土) 01:39
ワイドショーや新聞に声だけの出演をした近所の人々は、
安倍なつみは社交的で、町の事をよく考え、気前が良かったと語った。
町内のごみ掃除をいっしょになって進んでしてくれ、
近所の車道まですっかりきれいにしてくれた、と。
自分の住むその町に街灯を設置するため、安倍は労を惜しまず必死に
はたらきかけてくれた。
毎夏、安倍は四百人を超える人々を集め、自腹をきって、
恒例の誕生日パーティを開いていた。
そして――無償で自分の時間をさき、病院をおとずれ歌をうたい、
病気の子どもたちを愉しませた。モーニング娘。の衣装を着て。



4 :埋もれた夢:2000/10/28(土) 01:44
安倍が尋問を受けているあいだも、近所の人たちは
リポーターから質問攻めにあっていた。
いや、安倍は狂っているようには見えなかったな、と彼らはいった。
時々はしゃぐ事はあっても人並みだったし、
たまに、はしゃぎ過ぎても、ちょっと声が大きくなったり
陽気になったりするだけだった。
安倍は自分自身と、昔モーニング娘。だったことに
誇りを持っていて、ちょっぴり自慢げに話すこともあり、
近所の人達に時々嫌味を言ったりしたが、
当人はつねに笑顔を絶やさなかった。



5 :名無し娘。:2000/10/28(土) 01:45
安倍の家宅捜索令状がおりた日、
警察官と証拠班は安倍の家に誘拐の証拠を捜しにきていた。
警官達は家に入り、リビングルームのクロゼットのなかに落とし戸を発見した。
それは土底の暗い床下につながっていて、
底にはどうやら水がたまっているらしかった。
側にあったポンプで水を汲み出し、
水が引くと、警官は床下の泥のなかに降り立った。
床下は八十センチ足らずの深さだった。
よつんばいになり、南に向かって這っていった。
家の南東の隅に、ふたつの長いくぼみが見えた。
それぞれ長さ百八十センチ、幅四十五センチ。
墓の大きさだ。



6 :名無し娘。:2000/10/28(土) 01:46
西のほうに這いすすむと、灰皿大の水たまりが三つあることに気づいた。
そのひとつはくすんだ紫色をしていた。
ほかのふたつには、五センチほどの細くて赤い虫がうようよわいていて、
警官が照明をあてると、柔らかい泥のなかに潜りこんでしまった。



7 :名無し娘。:2000/10/28(土) 01:47
警官はまず南西の隅を掘ってみることにした。
膝をついて体をふたつに折り、シャベルを泥のなかに突きたてる。
耐えがたい悪臭が地面からたちのぼり、床下に充満した。
二回目にすくった土に、ぬめっとした屍蝋のかたまりがふくまれていた。
ほとんどラード同然の、白くてぬるぬるした腐った肉。
屍蝋とは科学的風化の産物で、そうなるまでには一年かそれ以上かかる。
死体は捜している少女のものではない。



8 :名無し娘。:2000/10/28(土) 01:47
となると、安倍は複数の殺人を犯している可能性があるということだ。
警官が最後のひとすくいを掘ると、何か硬いものにあたって、
人間の腕の骨らしきものがあらわれた。
白骨と化した遺体だった。
しばらく前に生きているのを目撃された少女のものではありえなかった。
警官は、上にいる警部補に向かって叫んだ。
「死体が見つかった! 殺人だ!」
警部補が叫び返した。「なんだって!」
二人の証拠専門家が床下に降りた。
そのじめじめとしたせまい場所にたちこめているにおいは、
床下にあるものを想像するのとおなじくらい耐えがたかった。
「ここには子どもたちが大勢埋まっている」と、警官がいった。



9 :名無し娘。:2000/10/28(土) 01:48
安倍なつみの家の地下室で、最初の死体を発見した日から二日後に、
最初の二遺体が引き上げられた。
腐敗から生じるメタンガスで、
警官達はとても家の中にいられたものではなかった。
道徳的な嫌悪感とは別に、実際、吐き気と一種のめまいにおそわれたのだ。
何年も床下に埋められていたので、
遺体のなかには一部が屍蝋と化しているものもあった。
分解してラード状になったものはすさまじい悪臭を放ち、
いったんその臭気を浴びた衣類は捨てるしかなかった。



10 :名無し娘。:2000/10/28(土) 01:49
警察は、集まったジャーナリストに向かって、
遺体はすべて少女のもので、
さらに二十体が埋められているかもしれない、と語った。
夕方のニュースには、安倍の家から死体袋を運び出している
警官達の姿が画面に流れた。
なかには死体袋よりはるかに小さい遺体もふくまれていた。
最終的に、全部で二十九体の遺体が運び出された。



11 :名無し娘。:2000/10/28(土) 01:50
安倍は、厳しい、心理学的、精神医学的な鑑定を受けた。
安倍に対する心理テストを担当した医者は
報告書の行動的印象の欄に、こう記している。
「安倍なつみは非常に愛想がよく、友好的で、
インタビューにはきわめて饒舌に答えた。
話し上手であることに誇りをもっていて、
それをタレントという仕事に利益をもたらす長所と感じている。
彼女の饒舌にはコントロールという基本要素があり、
自分が話したいことのみをことこまかに話す。
あきらかに、安倍は自分が不利にみえないように真実を歪曲していた。
目の前に事実を突きつけられてはじめて、
社会的には容認しがたい行為について認めるのだ。
一般的な印象としては、流暢な話し手であるとともに、
誤りをごまかそうとする人物でもある」



12 :名無し娘。:2000/10/28(土) 01:50
安倍へのインタビューとテストの結果について、
医者が“もっとも印象的”と感じたのは、
「自分の身に起きたことに関する責任をいっさい否定する点だった。
彼女はあらゆるものについて“アリバイ”をつくりだせる。
環境を非難する一方でその犠牲者を演じ、他人を非難しながら、
自身を捕らえようとする他者に虐げられているふりをする。
これはパラノイドとも解釈できるが、私はそうは思わない。
むしろ、安倍は、敵意に満ちた状況に左右される弱者として
自分を描くことによって、同情をひこうとしている。
彼女の思考における大きな目標とは、他人を出し抜き、
優位に立たれる前に優位に立つことである」



13 :名無し娘。:2000/10/28(土) 01:51
モーニング娘。が解散したとき、なつみはそれまでの事務所に残った。
グループの仕事には将来性が無かったし、なつみはソロをはじめたかった。
しかし事務所の返事は歯切れが悪かった。
なつみは事務所の言うとおり、レッスンを受け、
ソロデビューの機会を窺いながら、タレントの仕事をした。
一年ほどして、タレントの仕事も軌道に乗ってきた頃、
なつみは、矢口真里と会うようになった。
そして、真里とのユニットを考えるようになっていた。



14 :名無し娘。:2000/10/28(土) 01:52
安倍の友人、矢口真里が見るかぎり、安倍なつみは明るく仕事熱心だったが、
いつも感情が安定しているタイプではなかった。
彼女がうろたえているのを真里がはじめて目にしたのは、
なつみと連絡を取り合うようになった年の大晦日だった。
なつみは真里の肩に顔をうずめてあたりかまわず泣き、
モーニング娘。の解散を思い出すだけで耐えられない、と言った。
「なっちはモーニング娘。の解散には納得できていませんでした。
あまりに突然すぎたし、理由もわからなかったし。
どうしても悔いが残ると言ってました」
真里がおぼえているかぎり、なつみは、毎年、大晦日になると
メロン記念日も出場している紅白歌合戦の会場に観覧に出かけた。
そして、そのたびにいらついて帰ってきた。
なつみと頻繁に会うようになった年の大晦日がいちばんひどかった。
いつまでたっても泣きやまず、まったくといっていいほど取り乱していた。
そのわずか一週間後、安倍なつみは三十三人に及ぶ犠牲者の
最初のひとりを殺した。



15 :名無し娘。:2000/10/28(土) 01:54
病理学者達は、安倍なつみが殺したと思われる
三十三人の犠牲者の遺体をひとつひとつじっくり調べた。
検死官によれば、すべての遺体は、著しく腐敗しており、
かろうじて人間の骨とわかる状態であった。
腐敗がそこまで進んでいたので、三十三遺体のうち十体は
はっきりした死因を特定できなかった。
六体は、脊椎の首のあたりにロープがからまった状態で発見された。
あたらしくてあまり白骨化してないほかの遺体は、喉の奥に布がつめこんであった。
すべて、公判前の安倍の供述、説明、“もっともらしい話”と一致していた。



16 :名無し娘。:2000/10/28(土) 01:56
なつみは、自分が罪を犯したのかどうか正直言ってわからない、といった。
最初のほうの犠牲者たちはある程度記憶もあるのだが、
自分がべつの人間になってながめているような、
事件を目撃しているような感じしかなかった。
やがてすべてがおぼろげになって翌朝まで記憶がなくなり、
目ざめてはじめて、またしても首にロープが巻きついた死体を見つけるのだった。



17 :名無し娘。:2000/10/28(土) 01:58
なつみは、少女たちは“ロープで自殺したんだべ”といった。
もっと早い時期の供述では、“もうひとりのなっち”が
ロープで絞め殺したにちがいないといっていた。
ただ、朝になってはじめて“なっち”が死体を発見したので、
あくまで推測にすぎないけどね、と。
朝になると、少女たちは前の晩とおなじ場所に横たわって死んでおり、
首にしっかりとロープが巻きついているのだ。
なつみにできることといえば、死因を“もっともらしく考えてみる”くらいだった。
もし自分がほんとうに殺したのだったら、死体を動かすときに
口から血が洩れないように喉に布をつめこんだのだろう、となつみはいった。
それが真相かどうかはわからなかったが、じつにもっともらしい説明ではあった。



18 :名無し娘。:2000/10/28(土) 01:59
検死官たちが出した結論は、安倍なつみの供述どおりだった。
すべての犠牲者は絞扼死あるいは窒息死を遂げていたのだ。
唯一の例外があって、その犠牲者の死因は
“胸部の複数個所の刺し傷”、つまり刺殺だった。
安倍なつみが殺した最初の少女であった。



19 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:00
精神科医や、心理医はよってたかって最初の殺人に興味を示した。
最初の殺人が理解できれば、他のすべてが理解できるだろうと考えたからだ。
ばかばかしいべ。なつみは彼らにそういった。
最初の殺しは正当防衛だったさ。
事実がわかれば誰だって同意してくれるはずだべ。
寝室で包丁をもった人と向きあえば、だれだってそうしたべさ。
どうして最初の殺しがパターンからはずれているとわからないんだべ。



20 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:01
なつみの話ではこうだった。
一月六日の夜中、なつみは仕事を負え、家に向かっていた。
疲れてはいなかったので、少しドライブする気になった。
車で街を流しながら、通行人を観察していた。
なつみは事務所に頼まれたわけではなく、
勝手にスカウトのような事を時々していた。
といっても、かわいい子を見つけると声をかけ、芸能界の話をして、
興味があるかどうか聞く程度の事だった。

少女を拾ったのは偶然だった。最初の殺しは事故だったのだ。



21 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:03
なつみは車を寄せ、窓をあけ、思い出せるかぎりでは、
「何やってるんだべ?」とかなんとか声をかけたはずだ。
その少女はほぼ申し分なかった。
中肉中背だが少しがっしりした体格で、若く、おそらく十五か十六歳で、
髪の色は茶髪だったか金髪だった。
「べつに。始発まで時間をつぶさなきゃいけないんだ」
少女はなつみに気がつかないようだった。
「ちょっとドライブでもしないかい?」と、なつみはたずねた。
「モーニング娘。って聞いたことあるべ?」



22 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:05
ふたりは車を走らせながら、芸能界についてはなした。
なつみの記憶ではたしかオーディションの話になって、こう訊いたおぼえがあった。
「うちの事務所に来てみる気はあるかい?」
少女がうんといったか、いいえといったかは忘れてしまったが、
とにかくそんな話をして、
ふたりとも、いちど事務所で話をしようかという結論に達した。
まあ、そんなところだった。



23 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:05
とにかく、少女はおなかをすかしていたので、二人は最終的になつみの家に行って、
なつみが食べ物をつくってやった。ハムのサンドイッチだ。
なつみはハムの大きな塊を切った。いつも安くつくので塊で買っていたのだ。
というわけで、大きな肉切り包丁でハムを切った。
ふたりの話題はまたしても芸能界になり、モーニング娘。のことをいろいろ訊かれた。
さんざん話をして、なつみは疲れきってしまい、
「なっちは寝るから」といった。
少女には、泊まっていけばいいじゃないか、と勧めた。
駅まで送ってあげるよ、といって。



24 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:06
なつみは自分のベッドに入るとすぐに寝入ってしまった。
やがて――「朝の四時かそこらだったべ」――びっくりして目をさました。
物音が聞こえたのかもしれない。人の気配を感じたのかもしれない。
とにかくなつみは目をさました。
ドアのほうを見ると、逆光になった部屋の明かりのなかに少女が立っていた。
夢を見ているようだったが、少女は肉切り包丁
――なつみがハムを切った包丁だ――を手にもって、
ゆっくりとベッドに近づいてきた。



25 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:06
その話になるといつも実感がわかない。
なつみはテレビで観たことを話しているのかもしれなかった。
とにかく、あのときはうろたえてしまった。
「いったいどうしていいのかわからなかったべ」
気がつくと、なつみはベッドから跳び起き、少女に向かって突進し、包丁をつかんだ。
夢だったのかもしれない。



26 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:07
ふたりはもみあった。これはなんなんだべ、なぜなんだべ、となつみは思った。
包丁がなつみの腕に触れて肉が切れた。いまだに傷痕がのこっている。
ふたりはおたがいに話し合ったのかもしれないし、どなりあったのかもしれなかった。
まったくおぼえていなかった。が、たとえ何かいったとしても、
「いったい何をしてるんだべ? なんでこんなことをするんだべ?」
といったところだろう。
なつみの腕の傷口から血が流れ、ふたりはもみあい、包丁を奪いあった。



27 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:07
それはまさにテレビで観るような光景だった。
ふたりとも足もとがおぼつかなかったし、
なつみは故意に少女を刺したわけではなかったのだ。
「あのこは床に倒れたんだけど、まともに包丁の上に倒れこんだんじゃないかい。
包丁で自分を刺したんだよ。だって、なっちはあのこの手をつかんでいて、
包丁をあのこのほう、あのこの胸と胃のほうに向けて内側にねじっていたんだべ。
そしたらあのこは包丁の上に倒れこんで、その上になっちがのしかかる格好になったべ」



28 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:08
どんな順序で起きたのかは判然としなかった。
こまかい点はおぼえていなかったし、思い出せたとしてもあまり鮮明とはいえなかった。
なつみの物語にはぼんやりとした霧がかかっていた。
たとえば、ふたりが倒れたあと、少女はそこに横たわっていたが、
もしかすると、もみあっている最中になつみが包丁を奪っていたかもしれなかった。
“四、五回”刺したかもしれなかった。それも胸を。
というのも――なつみはそういった細部を懸命に思い起こそうとしているようだった
――そのとき少女の着ていたシャツが少しはだけていた記憶があるのだ。
だから、なつみは胸を刺したのかもしれないと思った。
倒れこんだあと、少女は身じろぎもしなかった。



29 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:09
なつみの心の中では、すべてが漠然としていた。
少女のかたわらで包丁をもったまま立ちあがったことだけはおぼえている。
バスルームに行って包丁の血を流し、それから自分の体についた血を洗い流した。
寝室に行くと“ゴボゴボ”という音が聞こえてきて、いつまでも鳴りやまないような気がした。
なつみはキッチンまで歩いていき、包丁をもとの場所に戻した。
寝室をさけながらバスルームに引き返したものの、
そのあいだもゴボゴボいう音はやまなかった。
ようやくその音が聞こえなくなり、なつみは寝室へ戻った。
少女は石のようにじっと横たわり、一言も発しなかった。
死んだべ、とおもって、なつみは対策を考えはじめた。



30 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:09
少女が襲ってきたのだから、警察に連絡してもよかった。
いや、だめだ、それはできない。
マスコミが事件のことを騒ぎ立てるだろう。
そうなるとタレント活動は絶望的だ。
警察に電話するわけにはいかなかった。
なつみは自宅でみずからの命を守った。
そしてそれを秘密にしておくことにした。



31 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:09
そういった考えや感情はなかなか思い出せなかった。
何年ものあいだ、頭のなかからみごとに追いだしていたのだ。
あの日、計画的でなかったことはわかっている。
何もかもが現実だとは思えなかった。
血と死体以外は。
なつみはまず血をきれいに拭きとった。
それがすむと、少女を寝室のクロゼットまで引きずっていき、
床下に通じる落とし戸のふたをあけ、“ただそこに落とした”。
なつみ自身は床下に降りられなかったので、ふたをもとの位置に戻した。
あのときは、そのほうが楽だったのだ。



32 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:11
なつみは歩きまわって、拭きのこした血痕がないかどうか調べた。
そして仕事に行く時間になった。
仕事先で、スタッフの一人がなつみの腕の傷に気づいた。
「どうしたの?」と、スタッフはたずねた。
なつみは嘘をついた。いままでたくさん善行をしてきて、
悪いことはほとんどしてないのであれば、人は嘘をつかなければならない。
あまり深く考えないことが肝心だ。
まったく考えなければ、それに越したことはない。
なりゆきにまかせて説明しよう。
なつみは嘘と嘘つきが大きらいだった。
「けさ、カーペットをカッターで切ってて、カッターがすべったんだべ」
スタッフは心配した。傷は深手で、縫う必要があったし、
放っておくと傷口から感染するかもしれなかった。
すぐに医者に診てもらったほうがいい、とスタッフは忠告した。



33 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:11
そのときに学んだ教訓がひとつあり、
なつみは無意識にそれを身につけていたのかもしれない。
人を殺しても顔には出ない、ということだ。
証拠といっしょに恐怖や困惑や良心の呵責を隠しさえすれば、
他人はいつもどおりに見てくれるのだ。
正当な殺人がひとりの人間の人生に影響をあたえていいはずがなかった。
それは、話しかけてくる人びとの目を見ていればわかる。
こちらがけがや病気をしているときはなおさらだ。
病気は、相手がどれほどこちらを気づかっているかを測る道具になりうる。
たまに気にかけてもらうのはいい気分だ。
ときどき、人は心からだれかに気にかけてもらう必要がある。



34 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:12
なつみはスタッフの思いやりに感謝し、その忠告を受け入れた。
仕事をはやくきりあげ、病院の緊急治療室へ駆けつけた。
腕を縫ってもらうと、なつみは家に帰り、落とし戸のふたをあけて、
わずか七十数センチしか余裕のない床下に降り、
体をふたつに折りながら浅い墓を掘って、少女の遺体を埋めた。
というわけで、なつみは床下に死体を埋めるようになった。



35 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:13
なつみが勝手にスカウトまがいのことをするので、
事務所は何度かなつみにやめるように注意をしていた。
しかしなつみはあいかわらず、出会った少女にいいかげんなことを言っては
事務所につれてきて、問題を起こしていた。
しかも少女のなかには、なつみに暴力を振るわれたというものもいた。
なつみは、行き違いで軽いいさかいになっただけだといっていたが。
事務所はなつみと矢口真里のデュオについては
なつみのソロよりは可能性があると考えていたが、
なつみが事務所に迷惑をかけていることもあって、企画はなかなか進まなかった。
デュオの計画を立てる一方で、タレントの仕事もいそがしくなり、
なつみは不安と疲労でぼろぼろになった。
たえず働きづめで、自分を見つめたり眠ったりするひまはなく、
へとへとになるまで仕事をしていた。
安倍なつみがあさみ(仮名)に会ったのもちょうどその時期だった。



36 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:13
あさみは十五歳だった。
なつみの事務所に一ヶ月ほど前にはいってきた、歌手志望の少女だった。
ある日、なつみとあさみは事務所でふたりきりになった。
なつみはあさみに、家に遊びにこないかと誘った。
「安倍さん、モーニング娘。時代の話をききたくないかっていったんです」
と、あさみはいった。「私は“都合がわるくて行けません”ってことわりました」



37 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:14
なつみはソファにすわろうと誘った。そしてお茶を注いで、あさみに勧めた。
「そうしたら安倍さんは歌のレッスンをしてあげるといいだしたんです」
なつみは家にカラオケの機械もあるといった。
結構です、とあさみはいった。
なつみはさらにプレッシャーをかけてきた。
「この業界じゃ、先輩のこと立てなきゃやっていけないべ」
あさみは「断わって、ずっと断わりつづけました」と、いった。
やがてふたりは仕事に戻り、
なつみは、今のはちょっとした悪ふざけだよといった顔をしていた。



38 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:14
ひと月たって、あさみは家にいた。両親は旅行で留守だった。
あさみは前日に足をくじいてしまい、
なつみは、あさみがひとりで家にいるのを知っていた。
だから、夜、なつみが訪ねてきたときも、見舞いにきてくれたのだろうと思った。
深夜零時ごろで、なつみはパーティ帰りだと告げた。
ワインの瓶をもっていた。
少女と先輩がワインを飲みはじめて三十分ほどたったとき、
なつみは、パーティでモーニング娘。のビデオを観てきた話をした。
ビデオは車のなかにある。観たいかい?
なつみが“あまりにもしつこく”訊くので、あさみは「はい」と答えた。



39 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:15
それは「Memory 〜青春の光〜 コンサート」のビデオだった。
ビデオが終わると、なつみは少女をつかまえて“ダンスの振り”をはじめた。
あさみの記憶では“子供がふざけてやるようなもの”で、
アドリブをまじえた、まったくのお遊びだった。
少女は先輩に恥をかかせまいと気にかけていたが、一分ほどすると、
なつみが“左手に手錠をかけようとしている”のを感じた。
あさみは右手を振りまわしてもがいたものの、なつみはその手をつかみ、
やっとの思いであさみにうしろ手に手錠をかけた。
それまではふたりとも立っていたのだが、いまやなつみは少女を床に押し倒していた。



40 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:16
あさみはうしろ手に手錠をされたまま仰向けになった。
なつみはキッチンに入っていった。
なぜなつみがその場を離れたのか、キッチンでなにを捜しているのか、
あさみにはさっぱりわからなかった。
少女は右手の手錠がゆるんでいることに気づいた。
なんとかはずしたが、彼女は手錠をかけられているふりをしてそのまま横たわり、
キッチンの戸口をながめながら待った。
なつみが部屋に戻ってきたとき、あさみは相手の膝にタックルをかけた。
必死だった。
少女は“右手からはずした手錠”をなつみの手首にはめた。
あさみは、鍵をなつみの手から奪ったのか、ポケットからとったのか思い出せなかったが、
「鍵を見つけて左手の手錠をはずしたんです」
なつみをうつ伏せにしておくため、
あさみはうしろ手にねじあげた相手の手首にその手錠をかけた。
彼女は先輩をそのまま一、二分押さえつけ、やがて立ちあがった。
なつみは五分ほど敷物の上にうつ伏せに横たわっていた。



41 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:17
やがてふたりは話をはじめた。罵ったり脅したりではなく、
とても理性的なものだった、とあさみは記憶している。
「彼女が帰るということで話がついたんです。私は立たせてあげました。
彼女、そのときは何もしませんでした。おとなしく帰っていきました」



42 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:17
なつみが帰ったあと、あさみは思った。なにが奇妙だといって、
うしろ手に手錠をかけられた先輩が、リビングルームの床に横たわったまま
最初にいったせりふほど奇妙なものはないな、と。
「手錠をはずしたのはあさみがはじめてだし、ましてや、それをなっちにかけるとはね」
と、なつみはいったのだ。
まるでいつも人に手錠をかけているみたいな口ぶりだった。
あさみにはさっぱり意味がわからなかった。
「まったくわけがわからなかったです。妙だとおもいました」

ほぼ一週間後、安倍なつみの事務所のべつの所属タレント、
りんね(仮名)は手錠をはずすのに失敗し、
以来、生きている姿を二度と目撃されなかった。



43 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:18
りんねは十六歳で、一年前になつみの事務所に入り、
今から売り出そうという新人歌手だった。
なつみとは親しくしていて、仕事が終わってから、夕食を一緒に食べるときもあった。
なつみがマンションから今の家にうつったとき、りんねは引越しを手伝ったりもした。
あるとき、りんねは頼りにしている腕利きのマネジャーを、
なつみが自分の担当にしようとしていることを知った。
おなじ事務所の友人に相談すると、友人はりんねの味方になるといってくれた。
その夜、りんねはふたりの友人を連れてなつみの家に向かった。



44 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:18
なつみの記憶では、りんねが友人とやってきたとき、
なつみは少し酒を飲んでいた。
「りんねたちは、なっちがひどいことをしたみたいに責めたんだべ」
なつみは早口でまくしたてた。
「りんね」と、なつみはいった。
「なっちはそんなことしてないべ。たまたま矢口とのデュオの話をしたら、
それに興味を持ってくれただけだべ」
なつみはりんねと友人たちを説得した。
「マネジャーが、もしなっちの仕事をやりたいといったとしても、
きっとなっちは断わってたべ」
りんねはいった。
「今が大事なときなんです。他の仕事に誘うようなことはやめてください。」
「本人が決めることだべ。なっちにはどうすることもできないさ」



45 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:19
妥協案が出た。
マネジャーはりんねの担当を続ける。
なつみはマネジャーに相談にのってもらうことはあっても、
自分の担当にするようなことはしない。
「りんねと仲間は同意したべ」と、なつみはいった。
「で、みんなでビールを飲んだべ。
なっちたちは納得できる結論に達して、ビールを飲んで、
それからりんねたちはみんなで帰ったのさ」
ひとり家にのこったなつみは、ビールで酔っ払い、
そのままソファで眠りこんでしまった。



46 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:19
なつみは目をさまし、なんとなく車に乗り、いつものように街を“流して”いた。
「べつにりんねを捜していたわけじゃないべさ」
と、なつみは当時を振り返っていった。
いつもの場所をうろうろしたが、その夜は何もなかった。
なつみはあきらめて家のほうに引き返したのかもしれないが、
最後に流すところがもう一個所あり、
それは帰り道からわずかにそれた場所だった。
たぶん、なつみは幸運だったのだろう。
なつみが暗い通りに目を光らせていると、道の角で、
りんねがふらふらと車から降りるのが見えた。
なつみが車を停めると、
「ちょっと話があるんだ」と、りんねがいった。
なつみも飲んでいたが、少女もかなり飲んでいるのは一目瞭然だった。
「乗るべさ」と、なつみはいった。
「急ぐべさ、だれかに尾けられてるんだべ」



47 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:19
りんねはろれつがまわらないほど飲んでいた。
そして、もう一杯飲みたいといいだした。
ポケットを探ってみたものの、財布は見つからなかった。
なつみは、今はお金を持ってないといった。
なつみの家に帰って飲むのなら問題はなかった。



48 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:20
後年、安倍なつみはあの夜の会話の細部までおぼえている、
とドクターたちに話した。
車を停めて家に入ったのをおぼえていたし、
りんねにビールを勧めたことも記憶にあった。
すべてが鮮明だった。
りんねはさらに一杯飲んだせいで正気を失い、
あらたな怒りを燃えあがらせた。
「あんたがなぁ」と、少女は叫んだ。
「マネジャーを引き抜こうとしてたことは知ってるんだ!」
なつみはなだめる口調でいった。
「そのことはさっき話しあったべ。みんなで話して納得したべさ」
なつみの話では、少女は泥酔していて、
けんか腰になったかと思えば、つぎの瞬間には謝っていた。
「なんとか……抑えなけりゃやばいと思ったんだべ」
後年、安倍なつみは、りんねにどうやって手錠をかけたかを実演しながらいった。



49 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:21
手錠――一週間前にあさみに使ったものだ――は
リビングルームの戸棚に置いてあった。
たいていそこに置いてあるのだ。
なつみは、とっておきの面白い話でもするように、楽しそうにいった。
「あ〜あ、見せたかったべ。りんねを乗せる直前、
おまわりさんが男の人を車にたたきつけて手錠をかけてたんだべ。
ねえ、ぜひ見せたかったべ」
りんねはむっつりとすねていた。「それがどうしたの」
「いいや」といって、なつみは手錠を戸棚からとりあげた。
「見せたかったべ」
立ちあがり、手錠を右手に持ってぶらぶらさせる。
「そのおまわりさんがどうやったか見せてあげるべ」
「なんでそんな必要があるの?」
「見ればわかるべ、さあ」
安倍なつみは少女の右手首に手錠をかけた。
「よーし、左手をうしろにまわすべさ。ほら、見せてあげるから……ちょっと待つべ」



50 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:21
少女の両手にしっかり手錠がかけられると、
なつみはもはや猫なで声でしゃべる必要はなかった。
「さあ」と、なつみはいった。
「これでじたばたできないし、暴れて物を壊すわけにもいかないべ」
なつみは少女の声をまねていった。
「ちくしょう、手錠がはずれたらぶっ殺してやるからな」
なつみはすぐに偉そうにいった。「はずれないべさ」
「ぶっ殺してやる」
「まあ、落ち着くべ。りんねの酔いがさめるまで手錠はそのままだべ。
ひと晩かかるっしょ」



51 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:22
りんねがむなしい努力を重ねて手錠をひっぱっていると、
そのうちバランスを崩してつまずいてしまった。
なつみは、「手を貸して床に寝かせてやったべ。
だって、よろよろしてたし、テーブルの角に頭をぶつけて、
けがをするかもしれなかったべ」
りんねが仰向けになると、なつみは、
しばらくその少女の腹の上にすわっていたような記憶がある。
「手錠がはずれたら、ぶっ殺してやる」りんねがすごんだ。
「ぶっ殺されるのはりんねのほうだべ。酔いをさますべさ、いいね?」



52 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:22
そのあとお酒を飲んだべ、と安倍なつみはドクターたちに語った
――「酔ってたうえにさらに酔っちまったべ」――それからりんねのとなりに寝た。
なつみがドクターたちに話したことを信用すれば、一晩じゅう添い寝をして、
怒り心頭の酔っぱらった少女が正気に戻るまでそうしているつもりだった。
「確か夜中の三時ごろだったべ」となつみはいった。
酔った少女に添い寝するという最後の憐れみの情。
それが、その夜の最後の記憶だった。



53 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:23
なつみは自分のベッドで目ざめた。
自分がどこにいるのかわからないほどの二日酔いで、
思わずあたりを見まわしたほどだった。
なつみはバスルームへ行ってから、
ふらふらとキッチンに入り、なにか食べるものを捜した。
ごくふつうの朝だった。
リビングルームにはまだ明かりがついていたので、
なつみは、だれが点けっぱなしにしたんだべ、と思った。
彼女は思った。りんねだ。りんねがまだそこにいるのだ。
安倍なつみはそう思った。
もう起こして、朝食をつくってやってもいいだろう。
なつみは、ドクターたちにそう話した。
死んでいる少女に朝食をつくってやるつもりだったと話したのだ。
安倍なつみは、りんねはまだ生きていると思っていた。



54 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:24
なつみが明かりを消すためにリビングルームへ入ろうとしたとき、
ドア口ごしに、床に横たわっているだれかの足と膝が見えた。
そして……りんねがそこにいた。
うしろ手に手錠をかけられ、仰向けになったりんねが、
安倍なつみが置き去りにしたままの格好で横たわっていたのだ。
ただし、首にはロープが巻きつけられ、目を閉じていたが、
顔は青みがかった赤い色で口をあんぐりあけていた。



55 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:25
なつみは少女のそばに膝をつき、まずロープをはずしてやった。
“ただ気を失っているだけ”だ、と信じこもうとした。
顔を少女の胸にあて、鼓動を聴こうとした。何も聴こえない。
なつみは顔をあげることができず、しばらく耳をつけていた。
ロープが巻きついていた首のあたりをマッサージしながら、
口うつしで人工呼吸をしてみようかとも思ったが、
冷静に考えてみるとばかばかしいことに気づいた。
りんねは死んでいるのだ。



56 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:25
少女をうつ伏せにして手錠をはずしてやると、
死体は硬くなってはいたが、完全に硬直しているわけではなかった。
なつみは早朝の静まりかえった家のなかを見まわした。
今回は、少なくとも拭きとるべき血痕はのこっていなかった。



57 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:26
どう説明したらいいんだべ?
なつみは少女の首にロープを巻かなかったし、強くひっぱらなかったし、
死ぬところを見てもいなかった。
でも、ゆうべはほかにだれもいなかったから、彼女がやったに違いない。
でも、なぜおぼえていないのだろう?
どうして何も思い出せないのだろう?



58 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:26
そして、なぜ同情をおぼえないのだろう?
おなじ事務所の少女がいて、いっしょに食事をし、引越しを手伝ってくれたのに、
彼女は死んでしまって、なつみはもう生きていたその少女の姿を思い描けないのだ。
どんな死にかただったにしろ、りんねの死はもう終わったことで、
だれも二度と口にしないに違いない。
それが、なつみが死体について考えたことだった。



59 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:27
むろん、やらなければならないことがあった。
なつみは床下に、苦労しながら十分な大きさの穴を掘り、死体を押しこんだ。
それからなつみは土をかぶせ、表面を平らにならした。
それっきり二度とりんねのことを考えずにすんだ。



60 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:28
りんねの両親は、朝になってもりんねが帰ってこず、何の連絡もないことを不審に思った。
いつまでたってもりんねが帰ってこないので、両親は警察に電話をかけ、
娘は安倍なつみという名の事務所の先輩のところへ行くといっていた、と伝えた。
安倍は、警察がりんねについて訊きにきたことをおぼえていた。
彼女はありのままに話した。
少女は数人の友だちを連れてやってきて、しばらくいいあらそい、
やがてすべてがまるく収まった。りんねは友だちと帰っていった。
その点については友だちに訊けばわかるはずだ。
逮捕され、ドクターたちの鑑定を受けるまで、
安倍は、りんねが死んだ夜、その少女をひっかけたことを忘れていた。



61 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:30
警察はりんね家に、娘さんは家出したのだろう、と告げた。
家族は、家出したにしてもあまりに状況がおかしい、といいはった。
なにも持たずに家出する人間がどこにいるというのだ?
ちがう、家出したのではない。家族は娘の安否を気づかった。
両親が安倍に電話をすると、協力は惜しみませんという答えが返ってきた。
安倍は、仲のよかった後輩が家出したことを残念がっていた。
りんね家は毎週のように警察に電話をかけ、
安倍の家を訪ねてもう一度事情聴取してほしいとせきたてた。
二年間で百本の電話を受けた警察は、
これ以上電話をかけてくれるなとりんね家にいいわたした。



62 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:31
安倍なつみが考えるには、そのとき、ひとりの連続殺人犯が生まれた。
彼女はなつみが知らない<もうひとりのなっち>であって、
なつみのなかに住み、こそこそ隠れ、チャンスをうかがっていた。
やがて、そのなっちは殺人を犯した。



63 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:32
なつみはドクターたちに、ほんとうに五人の死しか知らない、
実際に埋めたのは五人だ、と告げた。
最初は正当防衛で、そのときは最初から最後までずっとなつみだった。
つぎがりんねで、朝になると、理由もないのに
少女の死体がリビングルームで見つかったのだ。
なつみはまったくおぼえていなかったし、
少女がどんなふうに死んだのかもわからなかった。
<もうひとりのなっち>が現れると、
安倍なつみの世界はゆらぎはじめて真っ暗闇になるのだ。
殺しをやる自分の内なる存在についてはまったく記憶がない。
思い出せるほかの三人についてもおなじだった。
なつみは些細なことをおぼえていたし、少女たちがうしろ手に手錠をかけられ、
首にしっかりロープを巻きつけられて死んでいたことも記憶にあった。



64 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:33
安倍なつみと矢口真里のデュオの計画は、長いあいだ検討されていたが、
結局中止になり、その原因はなつみの歌唱力不足だった。
なつみは歌をうたう仕事がしたいと言う一方で、歌のレッスンにはほとんど行っておらず、
真里がその矛盾を指摘しても、理解していない様子だった。
真里はべつの道に進むことにきめ、殺人はますます頻繁に起きるようになった。
床下のスペースはいっぱいになってしまい、
安倍なつみが殺した最後の四人は、埋められてすらいなかった。
全員、なつみの家から車で一時間半走ったところにある橋から、
下の川に投げ落とされていた。
なつみが最後の少女を拾ったときに、たまたま数人の目撃者がいて、
警察の本格的な捜査を受けることになった。



65 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:34
警察、心理医たち、そして弁護士たちですら、
なつみに本当のことをいうようにプレッシャーをかけた。
あるドクターは、嘘をつくのはやめなさい、真実を語ってくれないと
医学的にも証人席でも力になってあげられない、といった。
精神科医や弁護士からなる弁護側チームはよってたかってなつみを攻め、
強硬な態度をとった。
弁護側チームはなつみの命を救うために<もうひとりのなっち>に会う必要があった。
――もしいるとすれば、きっとうろおぼえの夢のようになつみの心のなかに潜んでいるのだ。
弁護側チームはなつみに、すべての殺しの再現をさせたがった。
なつみはがんばった。真剣にがんばった。
ばかばかしいと思いながらも、彼らのいいなりになった。



66 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:34
なつみは椅子に前かがみにすわり、頭を横にかしげて目を閉じる。
眠っているのかもしれない。
眠っている人間、あるいは眠ったふりをしている人間がやるように、
なつみは軽くいびきをかきはじめる。
何分かが経過する。
ようやくいびきが止まり、なつみはぎこちなく眠りからさめて、重そうに体を動かす。



67 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:35
「よーし。手品を見せてあげるべ」
なつみは右手に持っているものを差しだす。
「手にとってはめてみるべさ」
「手錠?」少女は不安そうにたずねる。
「手品用の手錠さ。秘密のボタンがあるんだべ。どうやってはずすか教えてあげるべ」



68 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:36
「くるっとまわってみるべ。ちゃんとはめられたかどうか見せてみるべ」
なつみは少女の手首を見おろす。
それぞれの手錠をたしかめ、ほんの一瞬、にっこり笑ってその場に立つ。
やがて、顔がゆがむほど力を入れ、両手で手錠をぎゅっと締めつける。



69 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:36
「ほんとに痛いよ」少女はいまにも泣きだしそうだ。
「ボタンはどこ? どうやってはずすの?」
「冗談だべ。ボタンなんかありゃしないんだべ」
なつみはきわめて単純な手順を愚か者に説明しているのかもしれない。
「鍵がいるんだべ」なつみは忍耐づよく説明する。
その声には笑いを噛み殺している気配がかろうじて感じられる。
「ねえ、お願い」少女はあわれっぽい声を出す。
「はずしてよ。痛いよ」
「黙るべさ」なつみは穏やかな声でいう。



70 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:37
「その手錠をはずしてもらいたいかい?」と、なつみがたずねる。
「うん、お願い」全面降伏だ。
「だったら」――なつみはいま、正気の極致にいる――「いいというまで食うべ」
「全部食べたら手錠をはずしてやってもいいべ」



71 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:38
少女はもう何回も吐いたあとでぐったりしている。
ついに少女の懇願する声が聞こえてくる。
「ねえ、ねえ、もう帰ってもいいっていったよね」
「嘘をついたんだべ」なつみが穏やかにいう。



72 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:39
なつみは少女を仰向けにして、その上に力いっぱいとび乗る。
「腹筋が弱いといい歌がうたえないべ?」
なつみはそうたずねるものの、返事はなく、
痛みをこらえる途切れ途切れの叫び声がするばかりだ。
なつみは夢中になっている。
そしてまた少女の腹を力いっぱい押す。
長く悲しげな金切り声があがるが、それもやがて聞こえなくなる。
「楽しくないかい?」
なつみは、幼い子どもか愚か者に話しかけるようにたずねる。
「そろそろ楽しくなったんじゃないかい?」



73 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:39
「汗をかいてるみたいだべ。きれいにしてあげるべ」
なつみは少女の上から立ちあがる。
「バスルームまで歩いていけるっしょ」
「無理だよ……歩けないと思うよ」
「だったら」なつみはいらだたしげに説明する
――どうしてこのこらは何もかもむずかしくするんだべ――「這っていくべ」



74 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:41
なつみは膝をついてバスタブの蛇口をひねり、少女を見おろす。
これからやらなければならない仕事がある。
徹底的に浄化し、清めるのだ。
なつみはやさしく円を描くようにして少女を洗いはじめる。
「痛くないべ?」
なつみは思いやりをこめて訊き、少女は長く続くすすり泣きで答える。
「ただの洗面用タオルだべ」
なつみはやさしい声でいう。「痛くないさ」



75 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:45
なつみがいきなり同情的になったせいで、少女は堰をきったように泣きはじめる。
「悪かったべ」なつみは心から謝る。
「痛かったんなら、ごめんよ。きつくこすりすぎてるなら、いうべさ。これでいいかい?」
なつみは返事を待っているが、少女は何もしゃべらない。
「なんとかいってほしいべさ」
返事はなく、それがなつみをいらだたせる。
親切にしてやってるのに無愛想にしてるべ。
ただ目を閉じて横たわり、気絶したいとか死にたいとか考えてるべ。



76 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:46
なつみはバスルームの明かりから目をそらし、少女の頭を水のなかからひっぱりあげる。
たちまち、力なく咳きこみながら空気を求めてあえぐ声が聞こえる。
「ああ」少女は息もたえだえに嘆願する。「ああ、助けて」
なつみは少女の頭をつかみ、じっと光を見あげる。
「都会はなまら汚れてるべさ。室蘭の自然のように清らかにならないといけないべ」
「まず」と、なつみはいう。「浄めなければいけないべ」
そして少女の頭を水のなかに突っこみ、光を見あげる。
人には息を止めていられる限界というものがあるから、
なつみが三回目に水中から引きあげるころには、
少女の顔のまわりには泡がぶくぶく立ちのぼっている。
なつみは少女に肺から水を吐きだす時間をあたえ、
それから、あえいで真っ赤になっている少女の顔を
自分の顔のすぐそばまで引き寄せる。
「まず浄めなければいけないべ」
そういって、少女の頭をまた水のなかに突っこむ。
そして儀式は延々と続く。



77 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:47
突然、あらたな考えがひらめく。
「なっちは腹ぺこだべ。なんか食うかい?」
その声にはひょうきんな響きがある。
なつみが冷蔵庫をあけると、うまそうなものがぎっしり詰まっている。
「サンドイッチを食うかい?」
なつみが呼びかける。が、返事はなく、「じゃあ、なっちが食っちまうべ」
サンドイッチを食べ終えると、またちょっと仕事に戻る。
寝る前に二つ三つ片づけることがあるのだ。



78 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:47
「よーし」なつみは椅子から立ちあがり、少女が横たわっている寝室へ歩いていく。
「あしたは早起きなんだべ。もう帰ったほうがいいべ」
なつみは思いっきりあくびをする。
「行くよ」少女が弱々しい声でいう。
「だれにもいわないよ……」
「わかってるべ」と、なつみ。
「だって、もうひとつ手品があるんだべ。きっと気に入るべ。ロープの手品なんだべ」
なつみはロープを手に取った。
「これが最後のゲームだべ」と、なつみはいう。
なつみはとても誠実な人間で、
いまはちょっと疲れているが、これはまじめな手品なのだ。
「終わったら車で送ってあげるべ」



79 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:48
なつみは少女の首にロープを巻きつけ、絞めながらいう。
「アーティストにとって喉は命だべ。こうやって鍛えてあげるんだべ」
これはゲームだ、少女は考えた。十代で死ぬ人なんていないのだから。
これはただのゲームで、自分は死なない。死ねないんだ。
自分はまだ十代で、これはただのゲーム、ただの手品、“最後の手品”なんだ。
「お願い」少女があわれっぽい声でいう。「お願い、ちょっとゆるめてよ」



80 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:49
ついに少女が息絶えると、すべてが終わり、なつみと少女はやっと解放される。
「こんな弱い人間は歌う資格はないべ」と、なつみはつぶやく。
なつみは少女の喉のなかに布を押しこみながらいう。
「もっと強くならなきゃだめだべ」



81 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:50
裁判では、検察側も弁護側も、安倍なつみが多重人格だとは考えなかった。
弁護側は、なつみは精神異常であると訴え、法的に責任能力がないと主張した。
裁判官は、精神異常の答弁を退け、有罪判決を下した。
安倍なつみは、死刑を宣告された。



82 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:51
なつみはいった。「ひとり残らずおぼえてるべ。三十三人全員をね」
「すべてを知ってるのはなっちひとりだべ」

安倍なつみは、ドクターも弁護士も信じていなかった。
だから、なつみはドクターたちに一部始終を話したわけではない。
隠しておいたことがあるのだ。
まだいくつかちょっとした秘密があって、
まぬけな弁護士やドクターや警官たちはだれも知らないのだ。
秘密をもっていると、なつみは気分がよかった。
が、その反面、秘密というものは、こちらが出し抜いていることを
相手にわかってもらわないかぎり、まったく面白くない。



83 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:51
安倍なつみは検察側がすでに知っていることしか話さなかった。
あとのことは思い出せないといいはった。
しかし、なつみがなぜ最初の殺人についてしゃべったのかは説明がつかなかった。
警察も、その殺人のことは何もわかっていなかった。
少女の身元すらいまだに確認されていなかった。



84 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:53
あの日、なつみと少女は眠った。
なつみは自分の寝室で、少女はべつの部屋で。
が、そこで何かが食い違っていた。
その殺人に関する最新の説明のなかで、なつみは、
目をさましたとき、少女が右手に包丁をもってベッドのそばに立っているのに気づいたのは
午前四時ではなかった、と強調した。
もう日は昇っていて、朝になっていた。
なつみは少女の声を聴いたのだろう。
少女は実際に手を伸ばして、なつみの足にさわったのだろう。
なつみを起こそうとして、そっと揺すったのかもしれない。



85 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:54
なつみに見えたのは包丁だけだった。
彼女は少女に向かって突進し、包丁をもっている手をつかんだ。
が、包丁を奪おうとして取っ組みあいになったわけではない。
とにかく、その最新の説明ではそうなっていた。
少女はびっくりして脅えているみたいだったし、
まったく抵抗しなかったべ、となつみはいった。
なつみが少女の手首に手を伸ばしたとき、
少女は身を守るように体のわきから包丁を持ちあげた。
包丁がなつみの手のひらの肉厚な部分をざっくり切った。



86 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:55
なつみは手を流れる血から目をそらすことができなかった。
“爪先から脳天まで力がみなぎった”感覚をはっきりおぼえていた。
「なっちはもう弱い人間じゃなかったべ。いままでより十倍は強くなった気がしたべ」
その力は両手に集中した。
両手が異常に大きく力強くなった感じが満ちあふれた。
「こんなやつに負けないべ、やっつけてやるべ、と思ったさ。
体じゅうの血が顔にのぼっていくのがわかったべ。
目なんか顔からとびだしそうだったべ」



87 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:55
いってみれば一方的なけんかだったが、なつみは、
少女が“包丁の上に倒れたり自殺したりしたのではない”と認めざるをえなかった。
巨大な両手で少女をつかみ、思いきり壁にたたきつけてやったべ、となつみはいった。
少女は頭からぶつかって、包丁を落とし、ゆっくりと壁ぞいにずり落ちた。
なつみは少女の胸をまたいで立っていた。
左手で少女の金髪をひっつかみ、頭を床に打ちつけていた。
包丁はなつみの右手にあり、その包丁が少女の胸に突き刺さっていくのが見えた。
熱くてぬるぬるした血が流れた。
部屋がぐるぐるまわっているみたいだったべ、となつみはいった。
わけのわからない音がしていた。
包丁のぴしゃぴしゃいう音、苦痛と恐怖の金切り声、
ぱっくりあいた胸の傷口から聞こえる“ゴボゴボ”いう不気味な音。



88 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:56
少女がようやくおとなしくなると、なつみは死体を転がしてどけた。
「なっちは疲れきって、くたくただったべ」
しかしなつみは戦いに勝ったと思った。
その達成感のすさまじさになつみの頭はしびれた。
「そのとき、死は究極の勝負だってわかったんだべ」
寝室からいつまでも聞こえてくる“ゴボゴボいう音”のせいもあったが、
その天啓のせいで、
「なっちはわけもなくうろうろと歩きまわったべ。身も心もへとへとだったべ」
ふと気づくと、なつみはバスルームで、自分の体と、
どうやら持ち歩いていたらしい包丁を洗っていた。
包丁がきれいになると、彼女はキッチンへ持っていって“もとの場所”に戻した。



89 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:59
なつみはそのとき、テーブルにふたり分の食器類が用意されているのに気づいた。
なつみが用意したものではなかった。
カウンターには卵のパックが置いてあって、
まないたの上にはベーコンの大きな塊がのっていた。
ベーコンはまだスライスしていなかった。
少女はふたり分の食器を用意し、
うっかり包丁をもったままなつみの部屋へやってきて、
彼女を起こそうとしたのだ。
おそらく、ベーコンを食べるかどうかなつみに訊いたのだろう。



90 :名無し娘。:2000/10/28(土) 02:59
「あのこはなっちをやっつけようなんて気はなかった。
あのこは気のきいたことをしようとしてたんだべ」
だから、最初の殺人は事故だったのだ、
これっぽっちもなつみの責任ではなかったのだ。
だから彼女は警官たちにその話をした。
いっさいの罪がなかったから。



91 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:00
「なっちは『ギネス・ブック』に載ってるんだべ」
そういったなつみは、あからさまに誇らしげだった。
「あのこらを殺すのは簡単だったべ」
最初の十二、三人がすぎれば、あとは赤子の手をひねるようなものだった。
最後のほうの何人かにはルールを変えたさ。
「たとえば、手錠すらかけなかったのが何人かいたべ。
ロープの手品だけしか使わなかったんだべ」
あのころが絶頂期で、充実感に満ちた楽しい時期だった、となつみはいった。



92 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:01
逮捕されてから六年後、最高裁判所は、安倍なつみの有罪判決と死刑宣告を支持した。
死刑判決をうけた安倍なつみは、その七年後に延期願いが出され、
二年後のいまなお死刑囚監房で刑を待つ身である。



93 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:02
「埋もれた夢」終わり

94 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:02
 

95 :漂流記:2000/10/28(土) 03:21
「モー娘。の世界珍料理ツアー」のロケにいく途中、娘。達の乗ったセスナは海へ墜落した。
娘。達十人だけが浜辺へ流れ着いた。

「みんなよく聞いてほしい。いろいろ考えるのには、時間がいる。
すぐに何をしたらいいのか、私には決められへん。
もしここが島でなかったら、すぐに救いだしてもらえるかもしれん。
ここが島かどうか確かめる必要がある。みんなはこの付近で待っていてほしい。
どこにも行かないでもらいたいんや。
うちらのうち、だれか三人がこれから山に登って、事実を確かめてくる。
でかけるのは私と、かおりとそれから……」
熱意に燃えた顔を、彼女は見つけた。
「それから加護」
加護は、かろうじて助かった荷物のなかから大きなナイフを取り出してうなずいた。



96 :漂流記:2000/10/28(土) 03:21
果物も水もみつけていたので、すぐに困ることはなさそうだった。
海岸はあたり一面椰子でおおわれていた。
海の水は澄みきっていて底まで見え、
熱帯の海草や珊瑚が花のように多彩に輝いていた。
一種の魅惑的なものが三人とあたり一帯の光景の上に漂っており、
三人はそれを感じて幸福感に充たされていた。
太陽はさんぜんと輝いていた。



97 :漂流記:2000/10/28(土) 03:22
中澤は手をかざして、山へ通じているごつごつした岩の連なりを見た。
このあたりの砂浜が、今まで彼女らが見てきたどこよりも、山へ登る近道のようであった。
三人はよじ登り始めた。
途中で、くねくねと上のほうへと向かって登っている狭い小道が時として見られた。
三人はその小道沿いにじりじりと登っていった。
「この小道はなんの足跡なんやろう?」
加護はひと息ついて、顔の汗をぬぐった。
中澤は息をきらして彼女のそばに立っていた。
「人間やろか?」
加護は首を振った。
「動物やねん」



98 :漂流記:2000/10/28(土) 03:23
山頂に立ち、丸い水平線を見渡すと、三人は自分たちが島にいるのがわかった。
「人家の煙もないし、ボートもないね」と、中澤はいった。
「もっと確かめないとはっきりいえんけど、どうも無人島らしいわ」
「食料を確保する必要があるねん」と、加護は大声でいった。
「狩をしなくちゃあ。いろんなものを捕らえるんや……そのうちに助けがきますわ」
飯田は二人を見た。何もいわず、ただうなずくばかりだったが、
その黒い髪が、前やうしろにばたばた揺れるほどだった。



99 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:25
「お腹が空いた」
飯田が空腹を訴えると、他の二人もそのことに気づいた。
「さ、いこう」と、中澤はいった。「これでだいたいわかった」
暗くなるほど茂った森の入口にさしかかり、
疲れた足どりで小道をとぼとぼとたどっていたとき、
急にある――物音、動物のきーきー鳴く声――が聞こえ、
地面を蹴る激しいひづめの音が聞こえてきた。



100 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:26
三人が突進していくと、その悲鳴はいよいよ激しく、
しまいには、狂気のような叫び声になった。
網の目のようになったつる草に絡まれた仔豚が、恐怖のあまり、気違いのようになって、
弾力性のあるそのつるに向かってわれとわが身をぶっつけているのだった。
その悲鳴は細く、突き刺すように鋭く、必死だった。
三人はさらに突進した。加護は、一閃、ナイフをひらめかした。
彼女は、ナイフを握った手を高く揚げた。
が、その瞬間その手はそのまま、くぎ付けになったように静止してしまった。
依然として豚は悲鳴を上げ続け、つる草は依然としてぐいぐい動き続け、
加護の腕のせん端に掲げられた刃は、きらきら光り続けた。
加護のじっと静止していた時間が長いといっても、要するに、
もし刃をうち下ろした場合どんな恐ろしい事態が起こるかもしれないということを、
彼女らが理解できる程度の長さであった。



101 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:26
そのうちに、仔豚はつる草から身を解き放ち、かん木の下生えの中へ逃げ込んだ。
彼女らはそのあとただ顔を見合わせ、
流血の修羅場になりかねなかったその場所を、見つめていた。
加護の顔は真っ青で、気がついてみると、まだナイフを振り上げたままだった。
腕をおろし、ナイフの刃をさやにおさめた。
それから、三人は照れくさそうに笑って、またもとの小道のほうへと下りはじめた。



102 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:27
三人とも、なぜ加護が殺さなかったか、その理由はわかっていた。
ナイフを振って相手の生身を切るということのものすごさ、
見るに堪えぬ流血の悲惨ということ、それが理由だったのだ。
「もう少しで殺すところやったのに」と、加護は悔しそうにいった。
やがて、三人は日のあたる場所にでて、そこらにある果物などを探しては食べ、
断崖の所へ下り、さらに砂浜の高台、みんなの集まっている所へと下りていった。



103 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:28
十人は高台に倒れていた椰子の幹に腰をかけていた。
「うちらは島のなかにいる。うちら三人は、山の頂上へいって、
ぐるっと海に囲まれているのを見てきたんや。
家も煙も足跡も船も人間もみえんかった。
つまり、ほかにだれも人の住んでない無人島にうちらはいるわけや」
加護が、言葉をさしはさんだ。
「でも、豚がいるねん。」
加護は、つる草に絡まれたもがいていた紅色の動物のことを、
なんとか説明しようとやっきになった。
「うちらは見たねん――」
「きーきー鳴いてた――」
「そいつは逃げちゃった――」



104 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:30
保田が立ちあがった。
「裕ちゃんの話のじゃましないの。一番たいせつな話をまだしてないよ」
「うちらがここにいるのを、だれが知っていると思う? え?」
彼女は、そこで言葉をきったが、それは効果があった。
「うちらが現在どこにいるのか、だれも知らないんだよ」と、保田はいった。
顔色が少し青ざめていた。
「どこへ向けて飛んでいこうとしてたかは、知ってるだろうね。
でも、目的地に着かなかったんだから、
現在うちらがどこにいるか、だれも知らないと私は思う」



105 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:30
中澤が話しだした。
「そう。それをいおうとしてたんや。
うちらのいる場所はだれにもわかっとらん。
ここには長い間いることになるかもしれん」
完全な沈黙が続き、呼吸の音さえ聞きとれるほどだった。
「そんなわけで、うちらはここに長くいることになると思うんや」
だれも、何もいわなかった。中澤は、突然、にやっと笑った。
「でもここはいい島や。食べ物も水もあるし――」
中澤は続けていった。
「救助を待っている間は、この島で結構楽しくすごせるやろ」



106 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:31
「あの蛇みたいなものはどうするんですか?」
と、突然石川がいった。
「蛇みたいのってなんや?」
「獣みたいなものです。私、見たんです」
「どこで?」
「森の中でです」
あたり一帯を吹きぬけてゆく風のせいか、それともおそらくは日のかげったせいか、
木陰がいくらか涼しくなった。
少女たちはそれを感じ、おちつきを失ったようであった。
「このくらいの島に、獣だか、蛇だか知らんけど、そんなものいるわけないやろ」
と、中澤はさとすように説明した。
「そんなのはアフリカとかインドみたいな大きな国にいるもんや」



107 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:31
「でも見たんです。獣が暗闇にまぎれてやってきたんです」
「それじゃ、見えんかったはずやろ」
矢口が笑いだした。
「それでも見たんです。一度やってきて帰っていっていったけど、
またやってきて、私を食べようとしたんです」
「夢を見ていたんやないんか」
中澤は、笑いながら、一同に向かって同意を求めるような顔をした。
「悪夢を見ていたんやろ、きっと」
「獣みたいな、蛇みたいなものを見たんです。今晩もやってくるんでしょうか?」
「でも、獣みたいなものなんておらへんって」
「その獣は、朝になったら、木に登って枝にぶら下がっていたんです。
今晩もやってくるんですか?」
「獣なんかおらへん」
こんどは、だれも笑わなかった。



108 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:31
「ところで一番たいせつな話がある。実はさっきから考えていたんやけど。
山に登っていたときにも実は考えていたんやけど」
彼女は、つれの二人に眼くばせして、にやっと笑った。
「つまり、それはこういうことや。うちらはここでおもしろく暮らしたいということ。
それから救助されるのを待っていたいということ、こういうことや」
賛成の意を表わす激しい声が、会衆から起こって、波のように彼女を襲った。
「うちらは救助されるのを待っていたいと思う。
そしてもちろん、救助されるにきまっとる」
喝采と喜びの声が、またもや鳴り響いた。



109 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:32
「もう一つ、いいたいことがある。
それは、うちらを救助してくれるのに、うちらも協力できるってことや。
船がこの島の近くにきても、うちらに気がつかんかもしれん。
だから、山の頂上で煙を上げておかんといかん。
のろしを上げていないといかん」
「火だ! のろしを上げるんだ!」
たちまち、半数の少女たちは立ち上がった。
加護も、その仲間に入って叫んだ。
「さあ、行くで!」
椰子の木陰一帯は、騒音と動きでいっぱいになった。
中澤も立ち上がり、静かにしろと叫んだが、だれも耳をかす者はなかった。
たちまち、群集は山のほうへなびいてゆき、姿が見えなくなった
――加護の後を追っていったのだ。
中澤は、ただ保田と二人だけになっていた。



110 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:32
「まるで子供みたいじゃない!」と、保田は侮蔑をこめていった。
「あんなふうに行動するんじゃ、まるで子供の集まりじゃない!」
中澤は、彼女を怪訝そうに見ていたが、急に山を見上げた。
「裕ちゃん! ちょっと! どこへ行くの?」
中澤は、すでに断崖の最初の崖崩れの所にとっかかっていた。
ずっと前方からは、バリバリいう音や笑い声が聞こえていた。
保田は、不愉快な面持で彼女を見つめていた。
「まるで子供の集まりじゃない――」
彼女はため息をつき、身をかがめ、靴紐を結んだ。
われさきにと急ぐあの連中のざわめきの声が、山の上のほうへ消えていった。
子供たちのただ意味のない興奮のお供をしてやらなければならない親のように、
殉教者みたいな表情を浮かべながら、彼女はライターの入っている荷物を拾い上げ、
森のほうへ向かって進み、やがて崩れ落ちた断崖の一角から登りはじめた。



111 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:34
山頂の反対側の下のほうに森が茂っている高台が見えた。
「あそこの下のほうやと、木はいくらでも手に入りそうやな」
山の険しい側の、そこからおよそ百メートルくらい下に、
いわば薪の貯蔵所とでもいえる地点があった。
「今から薪を積むで。さ、始めや」
彼女らは適当な小道を探して下りてゆき、枯れ木を引っぱり上げ始めた。
そよ風が吹き、叫び声が聞こえ、高い山には太陽の斜光が射していたが、
そういう情景のただ中にあって、再びあの光輝が、
友情と冒険と満足にみちみちたあの不思議な、眼に見えない光が、漂っていた。



112 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:34
薪の山ができ上がったのを知るにつれ、一人ずつつぎつぎと薪をとりに行くのをやめ、
紅色のぼろぼろの岩肌をみせる山頂につっ立っていた。
薪に火をつけると、初めはほとんど見えなかった炎も、
やがて一本の小枝をつつみ、勢いをえて色づき、大きな枝に燃え移った。
鋭い音をたててその大枝ははじけた。
炎は高く燃えあがり、少女たちは喜びの喚声をあげた。
薪は朽ち果てていたので乾いており、
激しい勢いで枝ごとごっそり黄色い炎にのまれていった。
炎は上へ上へと燃えあがり、高さ五メートルもある一大火炎の柱となって天にそそり立った。
火の周辺数メートルの所では、まるで溶鉱炉の熱風のような熱気があふれ、
一陣の風はそのまま一条の火花の流れであった。



113 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:36
中澤が叫んだ。
「もっと薪を! みんなで、薪をもっともってくるんや!」
火勢との競争が始まった。少女たちは、上のほうの森の中へどっと散らばっていた。
山頂に、いわば完全な炎の旗をへんぽんと翻すことだけが当面の目的であって、
だれもそれ以外のことは考えなかった。
風が少し出てきて、汗でぬれた顔に夕風をうけた少女たちは、
働くのをやめ、清涼の感を味わっていた。
と、急に自分たちが疲労困憊しているのに気がついた。
ぼろぼろに崩れ落ちている岩と岩との間に横たわっている影の中に、
彼女らは自分たちの体を投げだした。
炎の柱も急激に小さくなり、そのとたんに、
薪もにぶい燃えがら独特の音をたてて、内側へと崩れ落ちた。
火花の大きな柱がぱっと上がり、それも傾いたかと思うと風下のほうへ流れていった。



114 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:36
中澤は、両腕に抱えていた頭をもたげた。
「これじゃ駄目やね」
矢口は、まだくすぶっている灰を見つめていた。
「どういうこと?」
「煙がたたんかったやろ。ただ炎ばかりでな」
保田は、岩と岩の間にさっきから身をおいていて、腰をおろしていた。
「あんなのじゃ火を燃やしたことにはならないよ」と、彼女はいった。
「あれじゃ役にたたないよ。あんな火を燃やしつづけられないよ、
どんなに一生懸命になってもだめだろうね」
「そんな言いかたすることないべ。」と、安倍は強い調子でいった。
「裕ちゃんだって一生懸命やってるべ。あとからそんなこと言うのは簡単だべ」
保田は黙ってしまった。
「生の枝をくべればいいんだよ」と、矢口がいった。
「煙をたてるのにはそれが一番いいんだよ」



115 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:37
中澤は、ぐるっと、周囲の少女たちを見まわした。
「交替でのろしの番をする必要があると思うんや。
いつ船がすぐそこまでこんとも限らんからね」
――と、いいながら、中澤は、一直線に張ったような水平線のほうに向かって腕を振った。
「監視をおいて、もし船があそこに見えたら、生の枝をくべればいいんや。
そしたら煙が上がるはずや」
少女たちは、濃紺の水平線を見て、西へ落ちてゆく太陽を見た。
急に彼女らは、夕方というものが、光と暖かさの終りを意味するということに気づいた。
後藤は、暗い表情でみんなを見わたした。
「ずっと今まで海を見てきたんだけど、船の通る気配なんかぜんぜんなかったよ。
救助される見込みなんて、まずないんじゃないかと思うんだけど」
ものすごい見幕でぷりぷりしながら、保田はいった。
「いいかげんにしなよ、後藤。いつかは救助されるに決まってるでしょ。
ただそれまで待たなきゃいけないってことだよ。のろしを上げて。
だいたい裕ちゃんも、小さなのろしを燃やそうっていいながら、
まるでキャンプファイアみたいな薪の山を作って――」
彼女は急に口をつぐんで、立ったまま、少女たちの背後、つまり山腹の無気味な側にある、
枯れ木がたくさん見つかった広い地面のほうを、じっと見下ろしていた。



116 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:37
枯れた、または枯れかかっている木を彩るように、それに絡みついているつる草の間から、
煙があちらこちらに立ちのぼっていた。
見ていると、一塊の枝の下の所から、めらめらと火の手が上がり、煙も濃くなった。
小さな炎が、ある木の幹のあたりをなめ始め、樹葉や枝の間を這いまわり、
分れたり勢いを増したりした。
煙はもうもうと立ちこめ、いたるところへ入りこみ、外側へうねっていった。
炎の芯は、軽々と木と木の間隙をぬって飛び、並んでいるすべての木に沿って
揺れ、動き、ゆらめき、つぎつぎとそれらを燃えたたせていった。
少女たちの下方にある、二キロメートル四方の森林は、煙と炎の修羅場となっていた。
いろんな場所で起る火の爆音は、今や一大轟音と化し、山全体を震撼させるかに見えた。



117 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:38
「あんな大きな火を燃やすから――」
中澤は恐怖を感じていたため、かえって、ひどく狂暴になっていた。
「ちょっと黙っといてや!」
保田も不安そうに地獄のそれのような劫火を見下ろしていた。
「あれは、あのまま、燃えつくすまで放っておく以外に手はないね。
あそこは、あたしたちにとっては薪の山だったんだけど」
彼女は唇をかんだ。
「今はどうすることもできないね。これからはもっと用心しなくちゃいけない」
安倍は、火事から眼をそらしながらいった。
「いつでも後からそんなこというんだべ」
安倍はくすくす笑いながらいった。
「ほら、のろし、のろしって、あんなに煙が上がってるべ」
煙幕が、島から数キロにわたって張りめぐらされていた。
まわりの少女たちもくすくす笑い始めた。まもなく大声をあげて哄笑しだした。



118 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:39
保田は、腹を立てた。
「みんな、ちょっと聞いて!
最初にあたしたちが作らなきゃいけなかったのは、浜辺の小屋なんだよ。
夜になったら、浜辺はひどく寒かったじゃない。
それなのに、裕ちゃんが、のろしだ、っていうとわあわあいってこの山へやってくる。
まるでこれじゃ子供じゃないの!」
みんなは、いつの間にか、彼女の演説に耳を傾けていた。
「初めにやるべきことを初めにしないで――ちゃんとなんにもやってないで、
どうして救助されるっていう見込みがたつのよ?」



119 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:40
「それから、ここへきたら、なんの役にもたたないのろしなんかを上げた。
もう少しで、島全体を火事にするところだったじゃない。
島が全部燃えてしまったら、おかしいじゃ済まないよ。
焼けた果物があたしたちの食糧になるんだよ、それから焼き豚も。
笑いごとじゃないんだよ! 裕ちゃんはリーダーなんだ。
それなのに、裕ちゃんにゆっくりものを考える余裕を与えてない。
ちょっとでも裕ちゃんが何かいうと、すぐ飛びだしていく。
まるで――」
彼女は、息をついた。
「そういえば荷物は? さっき誰かが枯れ木のところにもっていったんじゃない?」
少女たちは不審そうに互いに顔を見合わせた。
「――いったい、荷物はどこにあるのよ」
彼女らの足もと、つまり山腹の無気味な側では、轟音がまだ続いていた。



120 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:41
加護は、体を二重に折り曲げていた。
湿っぽい地面すれすれに鼻をくっつけて、
短距離走者のような格好で前かがみになっていた。
周囲はただ一面の下生えであった。
ここには、ほとんど小道とはいえぬくらいかすかな跡が、あるにすぎなかった。
つまり、折れた小枝と、ひづめの、それもその片側の跡だけしかなかった。
彼女はあごを低くして足跡を見つめ、
無理にでもその足跡に口を割らせるような面構えを示した。
それから、犬のように四つん這いになり、その窮屈さもものともせずに、
五メートルばかりそっと進んでいって、止まった。
そこにはつる草の輪があり、その茎の節から一本の巻きひげが垂れ下がっていた。
巻きひげの下の部分が擦りへっていた。
豚がつる草の輪をくぐって行くときに、
その剛毛の生えた横腹でそれをこすっていったに違いなかった。



121 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:42
この手がかりを文字どおり眼の前にして、加護はうずくまり、
前方の茂みの薄暗がりの中をじっと見つめていた。
髪は、以前みんなといっしょにこの島に流れ着いたときに比べれば、
ずっとのびていたが、今では色はずっと明るいものになっていた。
肌は、日焼けで皮がむけかかっていた。
ナイフで先をとがらせた、およそ1.5メートルの長さの棒を、右手で引きずっていた。
彼女は眼をつぶり、頭を上げて、大きく開いた鼻孔からゆっくり息を吸った。
暖かい空気の流れから、何か情報をつかもうとしていたのだ。
森も静かだった。彼女も静かだった。
彼女はやがて長いため息をついて、眼を開けた。
その眼は、事態が思うとおりにならないので、射るような、ほとんど狂的な光を帯びていた。
乾いた唇を舌でなめ、なんの応答もない薄情な森を、じっとにらみつけた。
それからまたごそごそと前進し、地面をあちらこちら調べた。



122 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:42
暑さよりも、森の静寂のほうが、いっそういらだたしかった。
この真っ昼間というのに、虫の鳴き声一つ聞こえなかった。
灰色の幹に青白い花をつけた一本の大きな木の樹身のところで彼女は立ち止まり、
眼をつぶって、もう一度暖かい空気を吸いこんだ。
こんどは彼女の息づかいは速く、顔面には蒼白な表情さえかすめるように現われたが、
すぐ元気な顔色がみなぎってきた。
真っ暗な木の下を、影のように過ぎてゆき、うずくまり、
足もとの踏みつけられた地面を、じっと見た。



123 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:43
糞はまだ温かかった。それは、踏み荒らされた地面にうずたかく積まれていた。
オリーヴがかった緑色を呈し、なめらかで、しかもまだ湯気さえ少しのぼっていた。
加護は顔を上げ、小道の上を縦横に乱れ入りくんでいる、
容易に近づきがたい山のようなつる草を見つめた。
それから、槍をさし上げて、そうっと近づいた。
つる草の向こう側で、小道は豚の通る道と合体していた。
加護がからだをのばして立ち上がったとき、
その道の上を何かが動いている音が感じられた。
彼女は右腕をふりしぼり、全力をあげて槍を投げた。
豚の道から、ひづめのすばやい、固い音が、カスタネットのような音が聞こえてきた。
それは、よだれを催すような、狂気を誘うような――つまり食肉を約束する音であった。
彼女は茂みの中から走り出て、槍をつかんだ。
パタパタという豚の駆ける足音は、遠方へ遠ざかっていった。



124 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:44
汗にまみれ、いくすじもの褐色の泥にまみれ、
一日じゅうの狩猟のもたらした一喜一憂によれよれに汚れ果てて、
加護はそこにつっ立っていた。
罵詈雑言を吐きながら、小道からそれ、帰路を求めて茂みをかき分けて進んだ。
やがて森が少し開け、真っ暗な屋根のような梢を支えているはげた幹の代わりに、
ふわっとした椰子の木の、明るい灰色の幹と頂とが現われた。
それらの椰子の木のかなたには、海のきらめきが見え、
そこからは少女たちの声が聞こえてきた。
中澤と飯田が、椰子の幹と葉で作った妙なしろもののそばに立っていた。
つまり、それは海に面して作られた粗末な小屋だったが、今にもひっくり返りそうだった。



125 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:46
中澤が加護を呼びとめた。
「あんたも手伝いや。今日でもう何日もかかって、こんなんやで!」
小屋が一つ、とにもかくにも建ってはいたが、いかにもがたがただった。
今やっているのは、初めからあばら家だった。
「みんな逃げまわってばかりいるんや。手伝ってんのはかおりと圭坊くらいや。
他の連中は、みんな泳いだり、果物を食ったり、遊んだりしてるんや」
彼女は、加護の足もとに身を投げだした。
「あんたも狩りに行くとかで、すぐいなくなるし」
加護は、さっと赤い顔をした。
「肉を手に入れたいねん」
「うん、でもまだ少しも手に入れてないやろう。
それはそれとして、うちらには小屋がいるんや。
それに他の子らも、あんたが狩りに誘って連れまわしとるらしいな。
何時間か前に戻ってきて、それからずっと泳いどるけど」
「手伝ってもらってただけや」
「でも失敗やったんやろ」
「でも、こんどは必ず! この槍に逆とげをつければいいねん!
一匹の豚を刺したけど、槍がすべったんや。逆とげさえつけたら――」
「必要なのは小屋なんや!」
二人とも、顔を紅潮させており、互いに顔を合わせることができなかった。



126 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:47
「うちらが小屋が必要な理由は――」
彼女は、ちょっとの間、口をつぐんだ。
「あんたも気がついてるやろ――みんなが怖がってること」
彼女は、加護の怒っている、汚い顔をのぞきこんだ。
「みんなは夢を見るらしいんや。夜、聞こえるやろう?」
加護は、首を横に振った。
「夜中に、ごそごそ話をしたり、うなされては悲鳴を上げたりしてるんや。まるで――」
「まるで、この島がまともな島じゃないみたいにってことでしょ」
突然、横からそういわれたのでびっくりして、二人は飯田の真剣な顔を見た。
「まるで」と、飯田はいった。
「獣が――獣みたいな、蛇みたいなものが、ほんとにいるみたいにってわけだよね。
覚えてる?」
獣とか蛇とかいう、このぞっとする言葉を聞いたとき、二人はぎくっとした。
この言葉は、今まで口にはだされていなかったし、口にだすべき言葉でもなかったからだ。



127 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:48
「まるでこの島がまともな島じゃないみたいに、か」
と、中澤はゆっくりいった。
「まったくそのとおりや」
加護は、腰を下ろし、両脚をまっすぐにのばした。
「そんなのおかしいで」
「うん、おかしいな。うちらが山に登ったときのこと、覚えてるか?」
二人は顔を見合わせて笑った。
最初の日のあの魅惑的な幸福感を思いだした。
中澤は続けていった。
「ま、そんなわけで、うちらには小屋がいるんや。一種の家として」



128 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:49
加護は両脚を引っこめ、両膝を合わせ、何かものをはっきりいおうとして、顔をしかめた。
「でもやっぱり――森の中で狩りをしてるとき、まるで――」
彼女は、突然赤面した。
「逆に――自分が狩られて追っかけられてる、そういう感じがするねん」
三人は、再び沈黙した。
飯田は、厳しい表情を見せ、中澤は、半信半疑のような表情を表わしていた。
「とにかく、うちらにできる一番いいことは、救助してもらえるように努力するってことや」
救助がどういうことか、思いだすのに、加護は一瞬とまどった。
「救助って? ああ、そうか。でもやっぱりまず豚を手に入れたいねん――」
彼女は、槍をつかんで、ぐさっと地面に突き刺した。
不透明な、狂気じみた表情が、彼女の眼に表われた。



129 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:50
二人は、浜辺のほうに下りてゆき、水際でふり返って、例の紅色の山を見上げた。
細い煙が、底の知れないほど青く澄んだ大空に、白いすじを一本あげてたなびいていた。
それは高く上がっては揺れ、淡く消えていった。中澤は苦々しい顔をした。
「あれやと十キロ先くらいからしか見えんな。あれじゃ、煙が少なすぎる」
細い煙の根もとの所が、急に濃くなって煙の柱となり、天高く舞いのぼっていった。
「生の枝をくべたんかな?」と、中澤はつぶやいた。
彼女は、眼を細くして、くるっと反対の方向を向いて水平線を探した。
「見つけた!」
加護の大声に、中澤は飛び上がった。
「何を? どこや? 船か?」
しかし、加護が指さしたのは、山から下の平坦な地区にのびている、
かなり上のほうにある下り勾配であった。



130 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:52
「そうやったんか! あそこにおるのんか――暑いときはあそこでじっとしとんのか――」
中澤は、彼女の憑かれたような顔を、困惑した気持ちで凝視した。
「船かと思ったで」
「そっと登っていって一匹の豚に近づいて――顔に何か塗ったら豚にもわからんやろ――
みんなで囲んでそれから――」
憤慨した中澤は、自制を失った。
「私は煙のことを話してたんやで! あんたは救助されたくないんか?
あんたが話せるのは豚以外にないんか!」
「でも、肉がいるねん!」
日の照りつける浜辺で、二人は、感情の摩擦にわれながら驚いて、
にらみ合ったままつっ立っていた。
「仕事せんといかん」
中澤は、小屋のほうに戻りかけた。
「少し手伝う」と、加護はつぶやくようにいった。「泳ぐ前に」



131 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:53
二人が小屋のところにきてみると、飯田の姿は見えなかった。
中澤は、加護に向かっていった。
「うんざりしたんやな、きっと。それで、泳ぎにいったんやろ」
中澤は、渋い顔をした。
「かおりは不思議なやつなんや。変わったやつなんや」
加護は、相手のいうことならなんでも承認するといった調子で、うなずいた。
二人は、暗黙のうちに小屋を離れ、海のほうへ歩いていった。
二人はいっしょに歩いていった。
しかし、この二人は、体験も感情もまったく異なる、
そしてそれを互いに伝えることのできない、いわば平行線をたどる二つの存在であった。
「豚さえ手に入れられたらなあ!」
「小屋をはやく作らんと」
二人は、愛情と憎悪にかられ、とまどった気持ちで互いに顔を見合わせた。
海の温かく塩辛い水だとか、みんなの歓声や笑い声や水しぶきなどの中にまぎれこむと、
いつの間にか二人の心はまた元のようにとけ合った。



132 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:54
当然そこにいるはずの飯田の姿は、海でも見当たらなかった。
さっき、中澤と加護が、浜辺へくだって山をふり返って見ようとしたとき、
飯田は実は数メートルをへだててその後を追っていたのだが、
その途中で立ち止まってしまったのだった。
だれかが、ちっぽけな家というか、とにかく、小屋を砂で作ろうとしている浜辺の砂山を、
彼女は嫌な顔をしながら見下ろして立っていた。
それから、くるりとそれに背を向けて、何かはっきりとした考えがあるようなようすで、
森の中へ入っていった。
彼女は断崖をこえ、それから右に折れて森の中へ入っていった。
果物のなっている広々としたその森の中を、彼女はいつもの足どりで歩いていった。
そこでは、充分ではないにしろ腹を満たすだけの食事なら、
たやすくとることができるのだった。
同じ一本の木に、花と果実がいっしょについており、
いたるところで熟した果実の香りが漂い、
花にたかっている無数の蜂の唸り声も、そのあたりに漂っていた。



133 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:55
飯田は、そこから離れ、かろうじてそれと見分けがつく細い道を見つけ、
それをたどっていった。
たちまち、ものすごいジャングルの中へ入っていった。
あたり一帯は暗く、つる草が、
あたかも沈没した船の索具のようにぞろぞろと垂れ下がっていた。
日光が多少明るく照っている場所へ、やがて出た。
ジャングルの中のそういう開けた所の一隅に、
つる草が絡み合って大きなむしろのようになって垂れ下がっていた。
この全区域は、ぐるっと、暗い馥郁たる香りのする茂みで囲まれており、
いわば熱気と日光のあふれるすり鉢然とした場所だった。



134 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:56
飯田は、立ち止まった。
彼女はふり返って自分の背後が閉ざされていることを知り、
ぐるっとすばやくあたりを見まわし、今や完全な孤独であることを確かめた一瞬間、
彼女の動作は、まったく人目を盗むような素振りを示した。
それから、かがみこみ、つる草のむしろの真ん中へもぐりこんでいった。
真ん中におちついてみると、
そこは、わずかの葉で外の空間から遮断された小さな小屋といった観を呈していた。
彼女は坐りこみ、茂った葉を押し拡げて、外を見た。
動いているものといえば、この暑気の中を、
互いに戯れるように飛びかっている二羽の華麗な蝶以外には何ものもなかった。
彼女は、息をのみ、聞き耳をたてて、じっとこの島から響いてくる音を聞こうとした。
夕闇が島のほうへ、どこからともなく忍び寄ってこようとしていた。
色彩豊かで奇怪な鳥の鳴き声、蜂の唸り声、
それに、角ばった崖の中にあるねぐらに帰るかもめの叫び声でさえも、
今ではかすかになっていた。
数キロかなたの珊瑚礁に打ち寄せ、そしてくだける大海のにぶい波の音も、
今では、血液の囁きの声よりも、まだかすかなものとなっていた。



135 :名無し娘。:2000/10/28(土) 03:58
飯田は、幕のように垂れている木の葉の茂みをもとのとおりにした。
斜めに射してくる幾条もの蜜色の夕日の光も、しだいに淡くなった。
茂った木の下では、暗闇が濃くなった。
光があせてゆくにつれ、眼もくらむような多彩な色合いも死んでゆき、
酷熱も、あえぐような雰囲気も、しだいに涼しくなっていった。
もう日光はきれいにこの空間から去り、空からも姿を消してしまっていた。
暗黒が漂い、木々の間の道をかき消し、あたりはただ海底のような、
漠々たる、そして、奇怪な、雰囲気に包まれていた。
大きな白い花が開き、それが宵の明星に続く星々の
ちかちかするような光芒をうけて輝いていた。
花の芳香が大気いっぱいに流れ、島全体をおおっていった。



136 :名無し娘。:2000/10/28(土) 06:57
後藤と吉澤は、午後になり、のろし監督の役目から非番になって、
ひと泳ぎしようと山から下りてきた。
後藤はさっさと海へ向かったが、吉澤は椰子の木陰を浜づたいにぶらぶら歩いていた。
「よっすぃー」
十メートルばかり離れた所の木の下に、加護が立っていた。
吉澤が彼女を見た瞬間、日に焼けたその皮膚の下を、ある暗い影が冷たくすぎ去った。
加護はもちろん何も気がつかなかった。
彼女は、ひどく気がせいて、いらいらしていて、しきりに手招きしていた。
仕方なく、吉澤も彼女のそばに近づいていった。


137 :名無し娘。:2000/10/28(土) 06:58
小川の端のほうにプールがあった。
といっても、要するに砂でせきとめられた小さな池で、
そこでは白い睡蓮の花や針のように細い葦が、いっぱい茂っていた。
ここで、安倍が待っていた。
日光を避けて、加護は池のほとりにひざまずいて、もっていた二枚の大きな葉を開けた。
一つには白粘土、もう一つには赤粘土が入っていた。
そのそばに、のろしの所からもってきた一本の木炭が、転がっていた。
そういったものを取り出しながら、加護は吉澤に説明した。
「豚は、うちらの臭いなんて分からへん。ただ姿は見えると思うねん。
木の下に、なんだか橙色のものがいるってふうに」
彼女は、粘土を塗りたくった。
「緑色の粘土があったらよかったねんけど」
彼女は、粘土を塗りたくり、半分他人のものになったような顔を、
まだ意味が分からずにぽかんとしている吉澤の顔の前につきだした。
「これ、狩りに必要なんや。ほら――迷彩ってやつや。
何かほかのもののように見せるってやつやねん――」
うまくいおうとして、彼女はいらいらしていた。
「――木の幹にとまっている蛾みたいにや」
吉澤は、意味が分かって、無表情な顔をしてうなずいた。


138 :名無し娘。:2000/10/28(土) 06:59
彼女は、顔の赤と白のくまどりの間を、木炭の切れはしでこすった。
池の面に映った自分の顔をのぞきこんだが、どうもおもしろくなかった。
しゃがみこみ、生温かい水を手に二度ほどすくって、ごたついたくまどりを洗い落とした。
吉澤は、つい笑った。
「ごちゃごちゃで、きもいよ、その顔」
加護は、新しいくまどりを考えついた。
一方の頬と一方の眼のまわりを白く塗り、顔の他の半分に赤い粘土をすりこみ、
こんどは、右の耳から左のあごにかけて、木炭で黒い線を一本引いた。
彼女は池の面をのぞいて、驚愕した。
自分の姿というより、恐るべき奇々怪々な姿がそこにあった。
飛び上がり、笑いながらはしゃぎだした。


139 :名無し娘。:2000/10/28(土) 06:59
池のそばで、彼女が一つの仮面をかぶって立っている姿には、
確かに、他の仲間の眼を奪い、威圧するものがあった。
彼女は踊りだしたが、彼女の笑いは、しだいに血に飢えた唸り声に変わっていった。
安倍のほうへ飛んでいった。
仮面はそれだけで一つの生き物のようであった。
その背後に、加護は恥辱と自意識から解放されて、潜むことができたのだ。
赤と白と黒の色彩でくまどられた顔が、空中に揺れ、踊りながら安倍へ近づいていった。
安倍は、笑いながら飛び上がった。
加護は、吉澤のほうに突進した。
「さ、いこう!」
「なんで――」
「いくで! うちは這っていって、刺してやんねん」
仮面の前には、抵抗するすべはなかった。


140 :名無し娘。:2000/10/28(土) 07:00
中澤は、海から上がってきて、浜辺をよぎり、椰子の木陰に腰をおろした。
大儀そうに、水平線の張りつめた青い一線に沿って、視線をはしらせた。
次の瞬間、彼女は、はね起きて、叫んだ。
「船や! 船や!」
船は、水平線上に、ぽつんと小さな塊のように見えた。
中澤は独り言をいいながら、真っ青な顔をしていた。
彼女は、はっとしてふり返り、山頂を見上げた。
そして、自分で自分を傷つけたような凄まじい絶叫を上げた。
中澤はたちまち、熱くなっている白い砂をよぎり、椰子の木の下を通って走りに走った。
まもなく、ほとんど断崖をおおいつくそうとするほど錯綜している茂みにぶつかり、
苦闘しはじめた。
中澤は断崖の内陸側の端に到着すると、はあはあと息せききって、
罵詈雑言をひとりでつぶやいていた。
つる草の中を無茶苦茶に走ってきたので、腕や脚はつる草の枝でかきむしられ、
一面血に染まっていた。


141 :名無し娘。:2000/10/28(土) 07:00
火は消えていた。中澤は、それをただちに見てとった。
いわば故国の船が手招きしていたとき、浜辺から彼女が見て直感したとおりの実状が、
今や眼前に示されていた。
火は完全に消え、煙の跡かたもなかった。
のろしの番人たちの姿もなかった。
まだ燃やしてない薪の束が、くべるばかりの状態のまま、捨ておかれていた。
中澤は、海のほうを眺めた。
水平線は、彼女の苦悩も知らぬげに再び広々と拡がり、
ほんの小さな点を残したまま漠々として横たわっていた。
「引っ返すんや! 引っ返すんや!」
彼女は、断崖に沿って、顔を沖のほうに向けたまま、あちこちと走りまわった。
その叫び声は、狂気のごとく激しくなった。
「引っ返すんや! 引っ返すんや!」


142 :名無し娘。:2000/10/28(土) 07:01
「畜生! のろしを消しやがって!」
彼女は、山腹の無気味な側を見下ろした。
片方の手の拳を固め、顔を真っ赤にした。
恐ろしいほどの凝視と、痛烈な声の響きで、彼女はいった。
「あんなところにおる」
遥か下のほうの、水際近くに点々と転がっている紅色の岩屑の間に、
隊伍を整えた一団の姿が現れていた。
足場のいい所へくると、きまったように、彼女らは一斉に棒を頭上に掲げた。
歌を歌っていたが、それは、少しよたよたしながら
二人の少女が大事に担いでいる荷物と何か関係がありそうであった。
こんなに離れていても、中澤の眼には、加護の姿は一目瞭然だった。
背が低く、隊伍を指揮するのが板についていた。


143 :名無し娘。:2000/10/28(土) 07:01
中澤は、黙って、隊伍が近づくのを待っていた。
歌声が聞こえたが、離れていたのでその文句は分からなかった。
加護の背後に吉澤と石川が歩き、肩に大きな棒を担いでいた。
その棒からは、臓腑を抜かれた豚の死骸がぶらさがり、
二人がでこぼこの地面をよたよた歩くはずみに、重そうに揺れていた。
首のつけ根にぱっくり開くほどの大きな傷をうけていたその豚の頭は、
地面に何か落しものを探しているような格好で、揺れていた。
やがて詠唱の文句が、すり鉢の底のような、
真っ黒に焼けただれた木と灰の山腹のかなたから、はっきり漂ってきた。
「豚ヲ殺セ。喉ヲ切レ。血ヲ絞レ」
歌の文句がはっきり聞こえかけたとき、行進はひどく険阻な場所へさしかかったらしく、
一、二分間歌声もやんだ。


144 :名無し娘。:2000/10/28(土) 07:02
粘土を顔じゅうに塗りたくった加護が、まず初めに山頂へ姿を現わし、
槍を高く掲げ、意気揚々と中澤に呼びかけた。
「どうや! 豚をしとめたんや――そっと近づいたねん――ぐるっと囲んだねん――」
狩猟隊の少女たちが、わっと一斉に喚いた。
「ぐるっと囲んで――」
「這っていったんだよ――」
「豚は、悲鳴を上げたんだ――」
真っ黒な臓腑を岩の上に垂らしながら、豚の死骸は吉澤と石川に担がれて揺れていた。
安倍は、例によって、一つの熱狂的な笑いに取りつかれているようであった。
加護は、一時に何もかも中澤にしゃべろうとしたが、結局何もいわずに踊りだした。
しかし、ちょっと跳ねただけで、それをやめ、ただにやりと笑いながらつっ立っていた。
彼女は、両手にこびりついている血糊を見て、嫌な顔をした。
それをぬぐうものを探したが、結局服でごしごしぬぐい、そして声をたてて笑った。


145 :名無し娘。:2000/10/28(土) 07:02
中澤が口を開いた。
「あんたたち、火を消してたやろ」
なんの関係もないことをいわれたという感じで、少しむっとした加護は、
ちょっと立ち止まったが、なにしろ嬉しさでいっぱいだったので、そう頓着しなかった。
「火ならまた燃やすやん。いっしょにくればよかったのに。
おもしろかったで。梨華ちゃんなんか蹴っ飛ばされちゃって――」
「うちら、豚をやっつけたんだべ――」
「――私、頭からつんのめっちゃった――」
「うちが豚の喉を切ったんや」と、加護は、自慢そうにいったが、
そういいながら、からだをぴくっと引きつらせた。


146 :名無し娘。:2000/10/28(土) 07:03
少女たちは、しゃべり合い、踊りまわった。
「血がどくどく流れたねん」
と、笑いながら、しかも身震いしながら、加護はいった。
「裕ちゃんにも見せたかったべ!」
「これからは、毎日豚狩りにいくつもりやねん――」
中澤は、かすれた声で再びいった。彼女は、ずっと前の所に立ったままだった。
「あんたたち、火を消してたやろ」
同じことを二度も繰り返しいわれて、加護は不安にかられた。
石川と辻のほうを見、それから中澤のほうへふり向いた。
「豚狩りには、のろし当番の二人も必要やったねん」と、彼女はいった。
「でないと、人数が少なくて包囲できなかったねん」
彼女は、失策に気がついて、赤い顔をした。
「火が消えたっていっても一、二時間のことやんか? またつければいいやん――」


147 :名無し娘。:2000/10/28(土) 07:03
彼女は、中澤の傷だらけのからだに気がつき、
中澤が無気味に沈黙しているのに気がついた。
自分が嬉しくてたまらないので、その喜びをともにしたいという気持ちから、
自分の経験したことをしきりに伝えたがった。
心の中が記憶でいっぱいだったのだ。
つまり、必死にもがく豚をみんなでとり囲んだときに彼女らが経験した事実、
生命をもった動物をうまくだしぬき、自分たちの意志をそれに押しつけ、
ゆっくり舌で味わう美酒のようにその生命を舌なめずりしながら奪い去ったという事実、
についての生々しい記憶でいっぱいだったのだ。
彼女は両腕を大きく広げた。
「あの血を見せたかったで!」


148 :名無し娘。:2000/10/28(土) 07:04
狩猟隊の少女たちは、かなり静かになっていたのだが、
血の話を聞くと、またがやがや騒ぎだした。
中澤は、髪をうしろへはね上げた。
片手は、影一つなく果てしなく拡がっている水平線をさしていた。
その声は強く荒々しく、みんながはっと静かになるほどだった。
「船が沖を通ったんやで」
加護は、中澤の言葉にあまりにも多くの恐ろしい意味が
同時にこめられているのを知り、たじろいだ。
逃げるようにして豚の所へゆき、片手でそれに触りながらナイフを取りだした。
水平線をさしていた手を、中澤はおろした。拳を固く握りしめ、声を震わせて、いった。
「船が沖を通ったんやで。ちょうどあのあたりや。
のろしはずっと燃やしておかないとあかんのに、それを消してしまっとるやないか!」
彼女は、加護のほうへ一歩近づいた。
加護もふり向き、二人は面と向き合った。
「船からは、うちらが見えたかもしれないんや。
もしかしたらうちらは故郷へ帰れたかもしれなかったんや――」


149 :名無し娘。:2000/10/28(土) 07:04
中澤は横を向いて、ちょっと黙っていた。
それから、自分でも制しきれないような激情にかられた声で、いった。
「船が沖を通ったんやで――」
狩猟隊の中にいた辻が、泣きだした。
やっと残酷な真相が、すべての少女の心にしみとおっていったのだ。
豚をナイフで切りつけたり、えぐったりしていた加護の顔面は、紅潮していった。
「こっちの仕事だって大変やったねん。人手が全部ほしかったんや」
中澤は、彼女のほうを向いた。
「小屋ができ上がってたら、人手はみんなあんたに貸してやれたはずや。
それなのに、無理に狩りに出かけるもんやから――」
「肉が必要やったねん」
加護はそういいながら、血のついたナイフをもったまま立ち上がった。
この二人は、互いに顔をつき合わせた。
片方には、狩猟と駆引きと恐るべき歓喜と技術のすばらしい世界があった。
他方には、願望と挫折した常識の世界があった。
加護は、ナイフを左手にもちかえた。
そして、額にぴったりはりついた髪を押さえつけようとして、血をべったりくっつけてしまった。


150 :名無し娘。:2000/10/28(土) 07:05
「済んだことをいってもしょうがないべ」と、安倍がいった。
「あのときに今日の分まで煙を出してしまったんだべ。いやっていうほど」
それを聞いて、あの大量の煙を思いだし、狩猟隊はみなどっと笑った。
加護は、それに勇気づけられた。彼女はそのときの様子を声で真似した。
みんなの笑い声は、ヒステリックな哄笑へと、一転していった。
中澤は、自分の口もとが、ぴくつくのを自分でもどうすることもできなかった。
こうやって妥協してゆく自分自身に対して、腹がたった。
彼女はつぶやいた。
「こんなんないやろ」
加護は、ふざけていたのを急にやめて、中澤の前にきて立った。
そして怒鳴るような声でいった。
「分かったよ、分かったよ!」
彼女は狩猟隊のほうを見、中澤を見た。
「ごめんなさい――火を消しちゃって。それは、うち――」
彼女は、しゃんと居ずまいを正した。
「――うち、謝るよ」


151 :名無し娘。:2000/10/28(土) 07:05
狩猟隊から、ざわめきの声が起こったが、それは、
彼女のこの殊勝な振る舞いに対する賞賛の声であった。
彼女らの意見は、加護は立派な振る舞いをした、
悪びれずに謝罪をすることによって正しい行為をした、
そして、なんとはなしに、こんどは中澤のほうが悪いということらしかった。
当然それ相応に立派な答えが、中澤からあるものと、彼女らは期待した。
しかし、中澤は、答えをしようにも喉がそれを拒否するのを感じた。
加護は失態を演じたにもかかわらず、それをごまかそうとして、
言葉のさきだけでうまいことをやっただけではないか、という釈然としない気持ちが動いた。
火は消えていたし、船も去ってしまった。
連中にどうしてこんなことが分からないのか。
立派な答えどころか、怒りの言葉が彼女の喉もとから飛びだしてきた。
「こんなんないやろ」
みんなは、山頂に立ったまま、しーんと静まりかえった。
ある不透明な表情が、加護の眼に表われ、消えていった。
中澤が最後にいった言葉は、無作法なつぶやきの言葉であった。
「ええわ、もう。火を燃やすんやね」


152 :名無し息子!:2000/10/30(月) 17:46
面白いな、頑張ってください。


153 :名無し娘。:2000/11/01(水) 23:14
サーバ移転でこっちに移りました。
http://natto.2ch.net/test/read.cgi?bbs=morning&key=972848701&ls=5

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